踊ろうマチルダ @ 大阪シャングリラ (27th Oct. '09)
音楽は音を楽しむだけのものではない
ツルベ氏は福井出身、関西と北陸とはあれど、くくれば限りなくすぐそばの「西」に位置する。そんなわけだから、関西で踊ろうマチルダを観られるということは、帰ってきた……そんな思いに駆られる。だが、それはあくまでも私だけに限っての感覚なのか、京都でのライヴでは、「魔の京都」と言い、この日の大阪でのライヴでは、時間という制約のせいなのか、果ては心の逸りがライヴに出てしまっていたのか、どうも踊ろうマチルダの歩くスピードと、こちら観る側のスピードが違うというか、二人三脚の呼吸が合うまでにちょっとだけ時間がかかったというのがちょうどいいのかもしれない。
踊ろうマチルダのライヴを観るのは今年ではや3回目。京都、東京、大阪と場所もハコの大きさも違えば、観ているお客さんの反応も随分と違うのが実にオモシロい。そして何より、毎回違った表情を見せてくれる踊ろうマチルダに魅了されて仕方がないことには変わりない。次はいつマチルダを近くで観られるのだろう? と、日本を東へ西へと巡るスケジュールを見ると、ライヴハウスもあれば、カフェ、バー、そして何と山の上のペンテョンなんていう音楽を聴くための場所から連想するには遠いスペースが書かれている。バンド・セットもあれば、ツルベ氏とギターの1本勝負、さらには、セットリストもカバー曲を挟んでみたり、やっぱりこの曲をじゃあ、なんという、その時、その場所でしか観ることができない決してこれが、踊ろうマチルダだという枠のない、まさにこれこそがライヴたるライヴという時間を与えてくれるのだ。
初めて聴く曲であっても、歌われるひとつずつの言葉をきちんと理解し、そのストーリーがワンシーンごとに頭に描かれていく。踊ろうマチルダを知ってから、日本語で歌われている歌のオモシロさを再確認し続けていると言っていい。曲の中で描かれる「つき」の表情だけではなく、その「つき」が「月」だけではなく、時としては運という意味合いの「ツキ」にも姿を変え、もしかしたら、その「つき」は、「月」でも「ツキ」でもない、何かを象徴するための、存在なのかもしれない。言葉が本当の意味で伝わるオモシロさとは、こういうことではないかと思うのだ。
日本語で歌っていても、外国語を発音するかのように1小節が真っ黒になりそうな言葉を詰め込み、結局は歌われている言葉がこちらに伝わってこない音楽が何と多いことか……そいういうことにも気づくくらいだ。ライヴでは、自己紹介がてら、ギターの弦に触れることもなく、肩幅くらいにすっと足を広げて立ち、歌うのが、自分をまんまタイトルにした"踊ろうマチルダ"。照れ隠しをぶっきらぼうさに替えてMCで説明されるかより、制限のある文字数で表現されたこの曲は、はるかに何倍ものストレートな感情や、決意に似た自分を歌い上げるのだ。シンプルで、それ以上でもなく、それ以下でもない。
そして日本語を自分の話す言葉、また日本語を話す日本人として、日本語を理解するということのオモシロさも同時に感じている。いつしかのライヴで"石狩挽歌"という曲のカバーを披露していた。石狩の冬の海の生活を歌ったものなのだが、それが、自分が生まれ育った福井の海、日本海の冬と重なると説明していたのだった。石狩の冬の海事情は直接的にはわからなくても、日本海の冬の荒波の激しさや厳しさなら見たことがあるし、歌詞を追っていけばその絵が浮かぶのだ。まったく同じものは描くことはできなくても、日本人なら、そう遠くはない連想ゲームを繰り広げているはずだ。
踊ろうマチルダは、アイリッシュ音楽にも影響を受けていたり、トム・ウェイツという名前にも大いに納得ができるし、踊ろうマチルダの音楽を形容するためには、わかりやすい方法なのだろうけれども、それと同等かそれ以上に、この踊ろうマチルダの綴る世界観や、それを表現する言葉というもの魅力をさらに感じて仕方がない。
report by kuniko
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