踊ろうマチルダ @ 京都磔磔 (18th July. '09)
酒は喉を枯らし、歌は心を潤す
祇園祭りも終わり、がらんとした四条通りには、昨日までのごった返していた人たちが残したムシ暑さと、名残惜しそうな提灯が風にゆるりと吹かれながら灯っている。直線を組み合わせて作られた化学物質のニオイが抜けきらないスタイリッシュなライヴハウスよりも、木と土にプラスしてこれまでにこの場所を訪れた人の数だけの汗がしみこんんだ磔磔の空間が断然落ち着く。今宵、磔磔へ来たるは踊ろうマチルダ。本人曰く、「魔の京都にて2デイズの2日目、緊張してるんですよ」ということだが、ごくごく近い関係であろうお客さんからの「カッコいいね〜」という言葉には「ま、それは後でいいから」なんて照れ隠しのほか何でもないスルーを決め込んで、今日はウッドベース、パーカッション、サックス&ティンホイッスルという4人構成の踊ろうマチルダが歌い出した。
ツルベノブヒロ氏の描く物語には、さまざまな旅人が登場する。旅人は彷徨い、人生の迷子になる……強がりすぎず、折れてしまわず、そこには、揺るぎない指標がある。その迷子にとって指標となるものは太陽ではなく月だというところが実にオモシロい。迷子なれば辺り全体を照らし進むべき道を指し示してくれる太陽=明確な答えを求めるものだが、自分の足下の具合を確かめるのが精一杯なくらいの明るさしかない月だと言うのだ。まず、現在置かれている自分を確認することから始めようということか。背筋をそっと撫でるように弦を上下させるウッドベースはぽってりとした佇まいに反して子気味よいステップを踏むようにリズムを弾き出し、曲ごとにパーカッションが、鉛筆のようなティンホイッスルが色を添えていく。
「癒し」という便利な言葉がある。「大丈夫」という便利な言葉がある。自分が迷子になった時、一番聞きたくない言葉たちだ。どちらも太陽によって、辺りを見渡せるようにはなっても、自分の足下は揺るぎないぬかるみだったことを忘れさせてしまう。つまり、何も解決していないのに、中途半端な同情によって、問題が解決できた気分になるのだ。「ちょっと暗い歌なんですけどね」とギターに目を落とし物語る歌は、月明かりで足元だけを照らしてくれるだけの歩幅ずつ物語が進んでいく。本人は暗いと表現する曲たちや踊ろうマチルダの曲が暗いなんて思わないのは私だけだろうか? 迷えども、足元はぬかるんでようとも、足元を照らすかすかな月明かりだけだろうが、決して後ろを振り返っていないからなのだ。
そして踊ろうマチルダの音楽に重ね合わせて浮かんでくるのが河島英五なのだ。亭主関白世代な昭和の男の歌う人生にも、酒があり、女がそばにいる。歌詞のなかでは「女」と歌っているけれど、本当は「おれのかわいいおひめさん」だったんだろうな……今も前もかわらなずお酒をともにする人生だったりする様が微笑ましく思えてくる。そして人生をともにしてきた酒と、迷子になりながら歌い続けてきた果てか、CDなんかで聴くよりもさらに荒削りな深い皺を刻み込んだ声が物語りに織り込まれた躍ろうマチルダの音楽が、心を潤すのだった。
恋に落ちる要素がたくさんあった。その時が来るべくして訪れただけだったのだ。taikiのライヴレポートを読み、ワクワク感しか湧いてこなかった。ライヴ映像を観て、心が踊った。踊ろうマチルダだけではなく、全身となるナンシー・ウィスキーの音楽を漁るように聴いて、ツルベノブヒロ氏が歌う物語を読み、荒削りのザラザラした現実を見た。そして待ちに待った今日ライヴを観て、確信に変わった。そう、踊ろうマチルダに恋をした。約1時間という時間は短すぎた。もっともっとツルベノブヒロ氏の世界を覗いてみたい。踊ろうマチルダが日本中を旅して回るなら、私もそこへ出向くだけだ。
report by kuniko
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