レイチェル・ダッド @ 京都アバンギルド (17th May '08)
点と点が線になる
今、ブリストルでは何が起こっているのか? 別で知ることとなったオロ・ワームスとレイチェル・ダッド、両者ともにブリストルを拠点としていて、音楽以外にも自分を表現する手段を持つ若きアーティストたち。そして、両者には、ブリストルからずっと北に位置する場所にも、フェンス・レコーズという共通項があったのだ。まだまだ知らないだけで、何かおもしろいことがブリストルで起こっているような気がしてならなくて、これからも目を離すことができない。そしてフェンス・レコーズに関わるアーティストを日本で観るチャンスが到来したのだから、私が行かないわけがない! 今回レイチェルは2月から長期滞在して、日本をグルッと回るツアーをしていて、この日の京都のライヴはそのツアーの終盤にあたる公演だった。季節柄なのか、人でごった返す京都三条をくぐり抜けると外の騒々しさがうそのような、落ち着いたアバンギルドが迎えてくれた。オレンジ色の灯りがほどよく、開演までの時間をそれぞれが食で満たしたり、談笑したり、日ごろの慌しい時間の流れを断ち切ってくれる落ち着ける空間がまたいい。
ステージに上がる彼女が手にするのは、バンジョー。なかなかお目にかかることにない楽器だけれどそのスマートな形とアコースティック・ギターとは違うちょっと壊れたおもちゃのような音色が好奇心を掻き立ててくれる。Tシャツに短めのワンピースを重ね胸元にはお手製のバッジをつけバンジョーを持ったレイチェルはイスにどっぷりと腰掛けて弾くのではなく、肩幅くらいに脚を広げて立って弾くというスタイルで歌い始めた。 歌い出すまでのおてんば娘のようなやんちゃな笑顔から一転、弦を見つめてマイクに向かう瞬間にスーッと歌に入り込んでいく表情は、少しだけ寂しげにも見える。そして歌われるのは"Water(水)"、"Bird(鳥)"…歌の起伏とともにおもむろに足元では小さな足がステップを踏み出してしまう。バンジョーをおろして次に向かうはピアノ。ほぼピアノの鍵盤を見ず、完全に天井を仰ぎ、その視線は天井を突き抜けて、空へと向けられているんじゃないかという姿を見ていると、もしかしたら、この人の音楽の原点はギターやバンジョーではなく、ピアノなのかもしれないと思わされる。鍵盤と鍵盤をつなぐのはたった10本の指、音というひとつの点何重にも重なりあってすべてがつながっていく。
ライヴ終盤、「これは、マイともだちがつくったアニメーションです」と日本語で説明し歌い始め、壁に映し出された映像は、何ミリ単位で魚が、靴がミカンが意思を持った生き物のように動き出し、人となり、獣へと姿を変え、芽ぶかせて、木になり、大地へと変化していった。レイチェルが登場し、数曲目で、「次の曲は…友達は食べ物と同じくらい大切という曲です」と説明すると会場からどっと笑いが起きた。友達と食べ物がいっしょって? そういう反応だったのだけれど、このアニメーションを見て、生きとし生けるもの、そしてそれをとりまくすべてのものがつながり、すべてが同じだけの価値のある生命であるということがレイチェルの土台となっているようにも感じた。
レイチェル・ダッドは音楽だけではなく、自身でパッチワークも手がけていて、アルバム『 サマー/オータム・レコーディングス 』のアートワークでも見ることができる。その作品はミシンで描かれていて、しかも下絵なしに一針ひと針(点と点)を描き進め線に、そして絵にしていくのだという。そこに描かれるのも木であったり、鳥であったり、果実であったり…レイチェル・ダッドが音楽で表現するそのものの世界観が、もうひとつの、目に見える形での表現方法でも描かれているのだった。
レイチェル・ダッドを色でたとえると、透明とは違った透き通った色……そういう感じだろうか。レイチェル・ダッドには色という魅力がないのではなく、まったく逆で何ものとでも溶け合い、すべてのものをつなげていけるそういう線を描くことができるという意味での透き通った色というのがいいのだろう。レイチェル・ダッドは間もなくフェス・シーズンに突入するイギリスへ帰国する。その後、再び来日するのだという。今度は音楽と、パッチワークとアニメーションとそして私のステップもいっしょにね、とニコっとしながらステップを踏む姿は、見た目だけではない、本当の可愛さだった。
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