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*なお、写真は3月23日の青山CAY公演で撮影されたものです。 |
『フリー・ジャズ』発〜
雑踏のような、控えめなジム・オルークの電子ノイズに、緩やかなサーストン・ムーアのギターが街角の息吹を重ねる。信号が変わったときの交差点、横断歩道を行き交う人の足音、車のアイドリング音。今では珍しいElectric Voiceのサウンド・システムから、そんなモノクロ・フィルムの映像が流れているみたいだった。 そしてシーンは、緊張感溢れるマッツ・グスタフソンのリードの即興演奏によって、ヒッチコック風のサスペンスへと移り変わる。日常に潜む狂気を、鋭く、淡々と、スタイリッシュに捉えた映像のなかの音。あるいは、『死刑台のエレベーター』に絶妙の彩りを添えたマイルス・デイヴィスだろうか。 「 Ladies and gentlemen ...This is the final show...of the first tour in Japan...of DISKAHOLICS ANONYMOUS TRIO...」 さっきまでリラックスした雰囲気でフロアを散策して、客からデモ・テープを受け取ったりしていた、サーストン・ムーアの囁くようなMCでこの夜のショウはスタートした。NYアンダーグラウンドの雄、SONIC YOUTHのサーストン・ムーア、シカゴ音響派の第一人者ジム・オルーク、ストックホルムの管楽器即興演奏の若手実力派、マッツ・グスタフソン。〈ポスト・モダン〉〈アヴァンギャルド〉〈コンテンポラリー〉...そんな常套句が、ショウの直前まで頭のなかを駆け巡るのだが、その実は、この日体験してみるまで想像がつかなかった。 フィードバック・ノイズとフリー・ジャズ。音響という方法論を媒体にして、2つの相性の良さを閃いたときに、ごく自然に《レコード中毒者の匿名トリオ》が生まれたのだろう。例えばアーチー・シェップのフリー・ジャズ期のレコードを聴くときに、そこにはスピリチャルな到達感という以外の目的は存在しないのじゃないかと思うことがある。聞く側が、プレイヤーと同じ境地にいないのならば、たちまち退屈な音楽にもなりかねないというような。 逆にそれがスリリングな魅力にもなる。高度な精神性を強いられると捉えれば苦痛 だけど、『禅問答』のようにまるで結論の見えない果てしないやりとりのなかで、突 然ジャンプするような瞬間があったりするのだ。(そして、ものの本によれば、それこそまさに禅の方法論なのだそうだが) 彼らの演奏が描くサウンドスケープのなかに、最初、映画の要素を詰め込んだモノクロ映像を見た後、ぼくが感じたのは、そんな禅問答のような3人の音のやりとりだった。ムーアの、自身の内に流れる旋律にリズムを刻んでいるようなエフェクト・ギター、オルークの、可細いドリルのような無機質な電子ノイズ、そしてグスタフソンの、音色にアタックをつけるときに、息継ぎとともに叫び声まで漏れてしまう、ヒステリックでパワフルな演奏。 30分だろうか、1時間はゆうに経っていたのだろうか、時間軸を逸脱した演奏が半ばにきて、SONIC YORTHを、ジーザス&メリー・チェインやマイ・ブラディ・バレンタインを、80年代後半から90年代初頭にかけて隆盛したどんなノイズ・ギター・バンドをも彷佛とさせるようなフィードバック・ノイズの轟音が、ムーアのギターから繰り出される。なんて言ったらいいんだろう... 。力強く切ない咆哮、だろうか。 ジャンプの瞬間だ。後は衝動に駆られるままに、ただノイズとブレスが、なんの秩序もないまま、ただ3人の内なる論理に従って繰り広げられる。ただ唖然とするのみ。とくにグスタフソンの、叫び声を漏らしてのアタックのみのソロには感服してしまった。
この日のオープニング・アクトを務めた、BOADOMSのyoshimi(Key./Vo.)とatari(Dr./Per.)にシタール奏者のヨシダキイチを加えたスペシャル・ユニット、RSYCOBABAは、シルクロードでつながっていた太古の草原を目の前に垣間見せてくれたような、落ち着いた、素晴らしい演奏を聞かせてくれた。その瞬間だけ、時間と空間の壁を取り払ってくれたかのようだった。観客の一人が、くわえた煙草の灰を伸びるにまかせて聴き入っていたのが印象的だった。
音楽はジャンルや歴史のなかでつながっているのだけれど、今、この瞬間に鳴らさ れている音には、過去も未来も関係ないのかもしれない。
report by ken and photo by nishioka. |