Taraf de Haidouks @ 渋谷ブエノス(24th Aug. '01)
今まで聴いてきた音楽って、なにだったんだろう...
ルーマニアからやってきたジプシーのバンド、タラフ・デ・ハイドゥークスのライヴを見ながら、そんな思いが自分のなかで渦巻いていた。ジミ・ヘンドリックスやジャニス・ジョプリンに始まって、チャーリー・パーカーからマイルス・デイヴィス、あるいは、ライトニング・ホプキンスやマディ・ウォータースにマーヴィン・ゲイやジェイムス・ブラウンやファンカデリック... これまでの人生に聞いてきたロックやジャズにソウルといった世界の巨人たちのすばらしい音楽さえもが、霞んでしまうほどに圧倒的な、そして、血の通ったダイナミックな「音楽」が、とてつもない勢いで襲いかかってくる。
といって、音が大きいわけでもなく、普通だったら、PAもなしに演奏されているアコースティックな楽器を使った音楽だ。アコーディオン、ヴァイオリン、ギター、ウッド・ベース、ティン・ウィッスルに似た音を出すフルート、それに、なんという名前なんだろう、ピアノの原型のような楽器で、琴のように弦を張ってそれをスティックで叩くものと、ある種、シンプルな楽器構成にすぎない。
しかも、演奏しているのは、どう見ても田舎のおじさんたちといった一行で、数人がユニットのように演奏したりと、全員が揃ってステージに現れるのは最後の方だけ。ステージで演奏していないときには、楽屋から抜け出て、フロアをうろうろしているメンバーもいる。おそらく、会場でみつけたのか、あるいは、関係者だろう、同郷の人たちにビールを持っていってあげたり、自分たちもビール片手に談笑したり、踊り出したり... いわゆる、我々が一般的に考える、コンサートだとか、ショーだとかいった感覚は、彼らにはあまりないようにも思える。ともかく、楽しそうなのだ。
ところが、ステージからはじき出されてくる音の勢いはすさまじい。スラップするようなウッド・ベースが強力なリズムを刻み、日頃は繊細な音を聞かせる楽器だと思っていたヴァイオリンまでもが、まるで怒濤のように迫ってくる。その迫力といえば、ステレオを大音響でならしたときに、ウーハーがどくんどくんとと心臓の鼓動を伝えるように揺れて、音圧を感じるようなもの。とてつもないパワーを持っている。
そして、それに輪をかけて力強いのが、まるで天空に祈るように、あるいは、神に語りかけるように歌われる声。おそらく、誰もが歌えるのだろう。時には、ヴァイオリン奏者が、あるいは、アコーディオン奏者が代わる代わるコール&レスポンスのように歌ったり、あるいは、リードを取ったり。時には、数人が一緒に歌ったり... こぶしの利いたそれは、どこかで日本の民謡やアラブの音楽、あるいは、フラメンコにも通じるもので、言葉もわからないのに、ぐんぐんと歌に飲み込まれていくのだ。
その歌が何語で歌われているのかもわからない。ルーマニアのジプシーだから、おそらく、ルーマニア語なんだろうけど、英語やフランス語、スペイン語なら、一言や二言なら聞き覚えがあるんだが、東欧の言葉なんてかけらも理解できない。それでも、なにかが身体を突き抜けて、心を揺さぶるのだ。
当然ながら、故郷を同じにした一部の観客は、そんな歌に応えて拍手喝采し、声を上げて踊り出している。
「うらやましいよね」
思わず、隣にいる知人に、そんな声をかけてしまったのだが、あの歌の内容を知ることができれば、あの感動がどれほどの重みをましたことか... なにせ、一言も理解できなくても、歌の裏に広がる世界を感じることができるのだ。
といっても、彼らが、そんなオーディエンスに対して、とまどうこともなく、自分たちの言葉に魂を込めて歌うことに、ひとかけらの疑問もとまどいも感じていそうにはない。なにせ、歌うことで糧を得て、命をかけて演奏を続けているのがジプシーのミュージシャンたち。彼らが演奏しているのは、趣味や余興の音楽ではない。パーティや結婚式で歌うことで、日々の生活を支えてきた彼らは、どんな客でも飲み込んでしまわなければ金を得ることはできないのだ。そんな生活を続けるからこそのたくましさが生まれてきたのだろう。
さらには、彼らに対する差別の歴史もあった。ナチスのユダヤ人虐殺は有名だが、同じように数々のジプシーが、あの時代に虐殺され、日本でいうところの「河原乞食」(差別語として今ではほとんど使われない言葉だが、かつて芸人は物乞いと同じように受け止められ、最も差別されていたという歴史がある)にも匹敵する差別を受けてきた。そんな生活が、実は、今でさえ続く彼らにとって、音楽は命を支えるほどの意味を持ったものではなかったかと想像するのだ。
そんな彼らの歴史を垣間見せてくれるのが、Taraf de Haidouksも出演している映画『耳に残るは君の歌』(年末より一般公開の予定)と呼ばれる、サリー・ポッター監督の作品だ。主演しているのは、ジョニー・デップやアダムズ・ファミリーで好演したクリスティーナ・リッチ。ジプシーのひとりとして登場する前者と、ユダヤ人の後者が、ナチスの迫害に向かいながら愛し合う様は、刹那的で、同時にあまりに美しい。
そして、ここで描かれる音楽の対比も面白い。一方で、金持ちやナチスにこびを売るクラシックな音楽と、普通の町の普通の人たちの酒場で演奏されるジプシーの音楽。クラシックが退屈だとは思わないし、その素晴らしさは認めても、日々の生活のなかで生まれ育まれた音楽には強靱な生命力を感じざるを得ない。
「20世紀には泣きたいことがたくさんありました。私はこの映画が、沈黙を強いられた、そして、今もなお沈黙せざるを得ない人々の『声』になることを、そして命を奪われた人々を悼み、それらを乗り越え生き抜いた人々への讃歌になることを心から願ってやみません」
この映画のパンフレットに書かれているのが、サリー・ポッター監督のこんな言葉。それは、今も同じように生きるジプシーの人々に与えられたものでもあるんだろう。
この原稿を書いているのは9月1日。実をいえば、タラフ・デ・ハイドゥークスの、今回の来日ツアー最終日が明日となる。しかも、午後4時からの開演で、どれだけの人が時間を作れるかわからないし、それまでにこの原稿を読む人もほとんどいないだろう。が、もし、この原稿を読むチャンスがあったら、無理をしてでも、彼らの演奏を生で体験することをおすすめする。ちょうど昨年来日したファンファーレ・チオカリアがそうであったように、ロックだとかテクノだとか、そういった音楽の範疇を遙かに越えた「生身の音楽」の素晴らしさを知らしめてくれるはずだ。
なお、9月2日は渋谷AXにて15時会場、16時開演で、19時には終演する予定で、問い合わせはプランクトン(03-3498-2881)。また、ここで使っている写真は、タラフのアルバム・ジャケット、および、映画の宣伝用フライヤーだということを記しておきます。
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