チベットから南米、そしてバスクへ...パート1

 99年のFuji Rock Festivalでのことだった。ラヴェンダーの花が並べられたステージ前には人影もまばらだったFiled Of Heavenに、THE 3PEACEと呼ばれるバンドが姿を見せていた。あの時、おそらく、ほとんどの人がこのバンドの存在に気がついてはいなかっただろうし、メンバーの説明でもされなければ、わざわざ会場の一番奥にまで足をのばす人もいなかっただろう。バンドを構成しているのは、元KING BEESの原広明、元MESCALINE DRIVE〜SOUL FLOWER UNIONの永野かおり、そして、元BLUE HEARTSの梶原徹也という3人が集まった、文字通りにしゃれた名前の付けられた3ピース・バンドだ。

The 3Peace  この時、インターネット班のヘッドとして働いていた筆者自身、彼らがどんなバック・グランドを持ったバンドで、どんな音楽を演奏しているのか、いっさい知らなかったというのが正しい。しかもそれだって、奇妙な仕事の依頼がなければ生まれてはいない。その仕事とは、ゲスト・ミュージシャンとして会場に姿を現していたチベット人ミュージシャン、ナワン・ケチョ氏の通訳。結果として、ステージにまで立たされるわ、彼のアシスタント的な役割も果たさなければいけないわと、要のインターネット部門ではあまり動けなかったのがこの年だ。彼らとの出会いは、そのナワンを経由したものだった。

 聞けば、あの年、チベタン・フリーダム・コンサートでナワンと知り合ったのがThe 3Peaceの面々。たまたまあのライヴでドラムスの梶君が(ナワンは彼をこう呼んでいた)助けたことがきっかけだったらしいのだが、そのチベタン・フリーダム・コンサートを制作したのが、フジ・ロックのプロデューサーであるスマッシュの日高氏だった。そこでナワンにいたく感動した通称、大将は、より多くのオーディエンスが集まるフジ・ロックのステージに彼を立たせたかったというのだ。そして、そのナワンと競演する形でThe 3Peaceがフジに登場することになったらしい。

The 3Peace  かといって、残念ながら、このときの彼らに演奏にそれほど大きな印象は残ってはいない。日本のバンドにしては珍しく社会的な歌詞や政治的なニュアンスが聞き取れるのだが、どこかで音楽と言葉が空回りしているように感じていたと言えば、そのニュアンスが伝わるだろうか... 正直言って、この時、ガツンといったインパクトは感じなかった。

 それだけではなく、彼らが多くの人には知られていなかったせいか、当時のFuji Rock Express '99の記録を見ると、なんと彼らが四人囃子だと伝えられている。おそらく、レポートしたのは若いスタッフだったのだろうが、とんでもないこの勘違いには失笑させられる。なにせ、四人囃子といえば70年代のバンドであり、写真から見てもわかるように、どう見ても彼らがそんな年齢には見えないのだ。

The 3Peace  が、このフェスティヴァルで日本のロック・ファンに大きな衝撃を与えることになったアルゼンチンのロッカーたち、Todos Tus Muertosとの出会いが彼らを大きく変化させることになる。なんと、この時、意気投合したのが3ピースとTodos。彼らが企画した3週間に及ぶ南米から北米へのツアーに3ピースを招待することになる。そして、翌2000年3月、初めて日本のロック・バンドを迎え入れたアルゼンチンから、メキシコ、そして、アメリカに及ぶライヴの体験が彼らをタフでハードなロック・バンドへと大きく成長させることになる。特に驚異的だったのは帰国直後に行われた下北沢でのライヴだ。99年の「空回り」は消え失せ、わずか3人という、ロック・ユニットとしては最小限の構成で、最大限の分厚い音と歌でオーディエンスを圧倒。そこには一皮もふた皮もむけた彼らの姿があった。

 そのThe 3Peaceの面々と3時間に及ぶインタヴューを決行。バンドの結成からチベタン、南米、そして、この4月にはイタリアからバスク地方へのツアーが決定している彼らがどこからやってきて、どこに向かおうとしているのかを尋ねてみた。

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The 3Peace 「まぁ、暇な3人が集まって... CD作るとかなんだとか、そんなの全然関係なくて、やってみたんですよ。最初にやったのが、高田渡の『自転車に乗って』。(笑)しかも、ヴォーカルは永野かおり... なんか、彼女、オッサン趣味みたいで(笑)」(原)

「その頃、たまたま高田渡のCDの復刻盤が出て、それにはまってたんですよ。『ごあいさつ』というヤツやと思うんですけど...」(永野)

「今考えれば、なんでそれをやったんだろうって思うけど...(笑)それまでやっていたバンドでヴォーカルだったから、ギタリストとしてやるんだったら、簡単な方がいいってのもあったかもしれないなぁ(笑)」(原)

「本当は『歩き疲れては...』(正確には『生活の柄』)ってのもやりたかったやけど、あれは歌うのが難しいから... あの時は、どんなバンドにしようとか、そんなこと全然考えてへんかったから」(永野)

「他には、ジミヘンの『エレクトリック・レディランド』に入っていた曲とか... 結局、3コードの簡単なのばっか(笑)」(原)

「とりあえず、やりたいってのがわかるような曲ばかりかな」(梶原)

「でも、エフェクターなんてのもなくて... そんなので演奏するのが、めちゃくちゃ新鮮だったよね。しかも、この二人がとっても不器用で... だから、こんな3人でどんなかっこいいことができるかって考えましたね」(原)

The 3Peace  と、ラディカルな姿勢で突っ走り続けるTHE 3PEACEの始まりは「ただの遊びみたいなものやった」(永野)という。その前はというと、腕自慢が集まるような大所帯バンド、KING BEESを解散後、「歌うことの衝動を感じなくなった」としばらくプラプラしていたのが原君。彼がその昔、まだ大学生だった頃に作った一番最初のバンドでドラムスを叩いていた梶君もブルーハーツ解散後、いろんなプロジェクトをやりながらも、やはり同じような状態が続いていたらしい。

「中川長官の下、ソウル・フラワーって、浅間山荘みたいな(笑)ところで思想教育を受けていた(笑)永野とか、みんな、音楽性もバックグラウンドも全然違うんだけど、すんごい開放的だったんですよ。それが良かったんじゃないですか? 異種格闘じゃないけど、それがうまくいったというか... そう、一度挫折した3人... みたいなのが集まった(笑)なんか落ちこぼれのフリー・スクールみたいなものですよ(笑)」(原)

「あの頃、メンバーかぶっていたバンドもいて、パーカッション中心の10人ぐらいのものだったんですけど、あっちの方はわりとライヴなんかもやってたんですよ。で、3人でなにをやるかっていうので、スタジオに集まって、とりあえずはすぐできる曲とか、好きな曲をやってみたって感じすね」(梶原)

「私、ずっとロック・バンドをやってきてて、3人でやるとゆうても面白ないなぁと思ってて... ほんで、そのサンバのバンドの方が興味があって、いろんなブラジル音楽とか教えてもらって、それにまたはまって... 3ピースよりかあっちの方に、私、興味があって、やっててん。(笑)」(永野)

「まぁ、僕は、それも楽しかったけど、ずっとそんな大所帯のバンドをやってたから、3人というバンドの方が、ギタリストとして新鮮だったね。一番、最初は、ただギターが弾きたいだけで(笑)集めてたから」(原)

The 3Peace 「結局、バンドをふたつやるのって難しいんですよ。それに、メンバー13人ぐらいいて、スケジュールを合わせるのが難しかったし.. それに、頭のなかではやりたいバンドの音が鳴っているんだけど、それがメンバーに伝わらないというか... バンドとしてのかっちりした意志とかも伝わらなくて、結局、そっちの方はダメになっていったというか。一方で、3ピースの方はコンスタントにライヴをしていたという感じですね。今考えると、最初は流れで続いていたんだなって思いますね。その間に契約の話が出てきたり... そうすると、またまとまるじゃないですか? そういうのがありましたね」(梶原)

 と、それぞれの言葉を聞いても、The 3Peaceが最初から明確なヴィジョンを持って作られたバンドでないことは想像できる。そんな3人が「(今じゃ、没になっているものがほとんどですけど)けっこう適当に曲を書いて...」(原)、97年9月に下北沢シェルターで初めてライヴをすることになる。その時点ではまだ漠然とした「なにか」が彼らの間にあったに過ぎないのかもしれないが、同時に、徐々にではありながら、「なぜ3ピースなのか」というモチベーションが顔をもたげてくるのだ。

「そん時のために新曲をいっぱい作ってたんやけど、そんなかでKING BEESが前やってた曲を焼き直したり... そのなかで『輝く未来』って曲ができたときに、あ、いけるんちゃうみたいに感じた。ずっとロック・バンドやって来たから、ふつうのはあんまりやりたくないなぁてゆうのはあったんですよ。で、妥協することなくとことん納得できるまで作りたいと思ってできたのがあれで、このバンドやったらすごいいい曲が作れるんやないか、とか、普通のバンドにはできないことが出来るんやないかと思うたんですよ」(永野)

The 3Peace  では、「普通のバンドにはできないこと」とはなになのか?

「別にセックス・ドラッグス・ロックンロールみたいな... そんなのも嫌いやないけど、それだけやないものというか... 以前におったバンドで、そういうのをやっていて、それはそれでも楽しいねんけど、満たされないというか、私の生き方とはちゃうなぁとか。ソウル・フラワーにおったときには、なんかの目的とかがあったんやけど、ただバンドやってるだけやったら面白くないというか... で、3ピースのリハーサルの時とかにみんなでいろんな話をして... 今の活動のなかの「フリー・チベット」とか、音楽以外の話やってんけど、そういう話ができたりしたとかという部分かなぁ。私にはそういう部分が大きかったなぁ」(永野)

 一方で、3ピースへの思いに、ある種の確信ができたのはいつだったのか... 3ピースこそが彼らの求めていたものだといった感覚を持ったのはなにをきっかけしていたのか? 話はそのあたりにつながっていく。

「ハッキリとね、『ああっ!』って思ったのは、やっぱり、チベタンの時ですね。ずっと後なんですけど、それが大きな転機でしたね。前やっていたバンドが解散して、次になにをやるかってことに関して、仏教徒としてのモチベーションというか、その部分が大きかったんですよ。音楽とそれをつなぐ接点がハッキリと見えたというか... もちろん、それまでだってロック・バンドとしてきちんと活動してきたけど、3ピースの姿勢と、それと... なんていうのか、表現とか、その発露とかいったものがいろいろとつながってきたと思うんですよ。それが初めてひとつになったというのか... まぁ、出演したいというので、アプローチはしていたんだけど、ナワンが出ることによって3ピースは落とされたんですね。でも、ナワンと一緒にセッションすることになって... その後からフジ・ロックに出て、トドスと知り合って南米ツアーが始まったりとか、具体的な現象としていろんなものが出てきた転機だったと思うんです。わかりやすく言ったら、そこだなっていう感じがしますね。うん、これは面白くなってきたなという感じですね」(梶原)

The 3Peace  では、原君の場合は...

「俺の場合は、ハッキリないんだよね。でも、何回かライヴやった後にこのバンドをどういった方向に持っていこうかって話したことがあってね。とにかくすごいことをしようよ..(笑)って、なんのことかわからないけど、そうなっちゃったわけです。で、そのすごいってのがなにかってことになって... そうしたら、ガ〜ンといった音なんかが現れてきて... でも、その時に、レイジの影響なのかもしれないけど、ニルバーナとかグランジとかってのが、それまではネガティヴに聞こえていたんだけど、初めてポジティヴなものに聞こえたんだ。なんか、そういった音が、訴える言葉があったときに、初めてそれを可能にしてくれるというか、そこに面白さを感じたな。テクニックじゃなくて、ギターとかからでてくるノイズなんかに思いを込められるような気がした。それがやりたくなったというか...

 それまではファンクとか、いわゆる構築していくものだったんだよね。そうじゃなくて、絵を描くような音楽とかができるんだと思って... なんか、3人でバンドをやるのって、手を抜けないけど、緊張感と自由というか開放感というか、それがしょっちゅうできるというか、それがやっていて面白いよね。

 それと、やっぱり、梶君はブルーハーツってのがあって、周りの人たちはどうしてもそういった目で見るじゃないですか。でも、チベタンの時に、梶君は「抜けた」んだなぁって思いましたね。俺は、勝手にそんな気がしてるわけ。彼がブルーハーツのあとにやっていたブルー・キャデラックをみたときに、『ああ、ブルーハーツやっていた人がやっているバンドだな』って思えたんですよ、俺はね。3ピースやってて、時にそう思うことがあったこともあるんだけど、そうはしたくなかった。やっぱ、ニューカマーとして、今のバンドとしてやってるんだって感じのものをやりたかったから」(原)

The 3Peace  面白いもので、人間は必要としているときに必要なものに出会うことになっている。おそらく、その理由は無意識的にであれ、なにかの恣意的なものが動いているということなんだろう。すでに15年来の友人であるという原君と梶君が、互いを必要としていた時期に再び一緒になり、すでに一緒に生活していた原君と永野さんが共にバンドを作る必然性がある時生まれてくる... そんなタイミングが時にとんでもないパワーと創造性を生み出していく。それがバンドの生まれた97年であり、チベタンのあった99年なのだろう。

「この二人とやりたいなと思ったのは、ブルーキャデラック(オーケストラ)がシェルターでライヴやってて、その時、KING BEESと対バンだったんだよね。その時、梶君みて、ピンと来たんだ。あっ、なんか、一緒にやりてぇなって感じで。それにこの人も(永野さん)チャイナボウルズを見に行った時に、ピンと来たんだよね。なんか、そんな感がしたの」(原)

「両方ともね、なんか、もったないなって感じ。(笑)年齢が上がってくると、諸事情でいろんなやりたいことがフェイドアウトしてくることってあるじゃないですか。そうならない、大きな転機になったのがチベタンだったなって、やっぱ思いますね。いろんなチャリティの企画だとかあっても、これだったんだって」(梶原)

 まるで宗教的な信仰に近いものかもしれないが、それがこの3ピースに起こっていったんじゃないだろうか。

「かなり予想外の動きをしているよね。(笑)とんでもないところから、とんでもないものが起きているって感じですけどね、うちらの場合。突然南米に行くとか...(笑)」(原) The 3Peace  これまでのことを振り返って、そんな言葉も出てくるのだが、それでもこの彼はこんな言葉を続けるのだ。

「なんかこれはKING BEESを10年ぐらいやって全く感じなかった『力』を感じるんだよね。オカルトっぽいのは信じないんだけど、チベタン以来、そんなものを感じるんだ。でも、それ以前からあったかもしれないな。バンド始めて、すぐにポリグラムからレコード作らないかって話があって、音を残せたし、契約が終わった頃に渋谷で偶然今のレコード会社の人と顔を合わせて、こう(新しい契約とアルバム作りもいできるように)なったし... チベタンからトドスとの出会いとか、なんかの『力』を感じるのは確かだね。その時に『ゾンビ・ダンス』という曲を作っていて... 大げさな話になっちゃうけど、今まで抑圧されてきた人たちへの思いというのか... 『レクイエム』という曲を演奏しているときにも、『あ、なんかおるわ』って、そういうヘンなものを感じるときはあるしね(原)」

「普通だったらCD出して、日本をツアーをして、だんだんファンが増えていって... って食えるようになるってことになるんだろうけど、それとは全然違った予想外のストーリーになってるよね。わけわかんないですよ。ホント、このバンドって、そんなわけのわからないことばかり起こるから、不思議で仕方がないですよね。たとえば、チャリティのイヴェントにしても、メジャーに関わっていたら、いろんなところから雑音が聞こえてくるんですよ。全部出るかでないかだよねとか.. 気持ちはあっても、いろんなことを考えてちじこまっちゃうバンドっていっぱいいると思うんですよ。でも、このバンドは、事務所もレコード会社も、全然問題ないし、そんなことは考えなくてもいいような、僕らにとって非常に幸せな環境にいますよね」(梶原)

 おそらく、その不思議な『力』が彼らを引き寄せるように南米へ向かわせたのだろうか? アルゼンチンを初めてツアーした日本のロックバンドとなったのが3ピース。その話はパート2でお届けしよう。

reported by Koichi Hanafusa.


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