Banda Bassotti tour in Euskal Herria & Catalonia(Dec. in 2001)
イタリアを揺るがす親父達のレベル・ロック
バンダ・バソッティをチェックせよ!
-at razzmatazz in Barcelona-





interview at RCB in Barcelona

左から、ダヴィデ、ピッキオ、シガロ

-at bac art in Roda De Ter-






-at vigo in Galizia-




---at iruna in Pamplona---






---information---

*なんでも日本のインディ・レーベルから、グリダロ・フォルテの作品の数々、主にコンピレーションが発表されているということです。これはその1枚で、バンダ・バソッティの発表したアルバムからベスト的に選曲して作ったアルバムだとのことです。
そのほかにも数々のアルバムが発表されているようなので、ご関心のある方はこちらで確認してくださいませ。なんでもサンプラーの音源がもらえるようなサーヴィスもあるという噂もあります。(確証がないので、間違いだったらごめんなさい)
また、グリダロ・フォルテの公式ホームページはhttp://www.gridaloforte.com/
エサン・オゼンキ・レコードの公式ホームページはhttp://www.esan-ozenki.com/
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まるで叫ぶように歌う子供達の前で激しくロックしているのは、彼らの親父といってもいい世代のロッカーだ。なにせ最年長は46歳のギタリストでヴォーカルのシガロ。ちょっと太っ腹な、会場の外で見ればどこにでもいる典型的なイタリアの親父っさんといった風貌をしている。一方、ハッピー・マンデーズのベズを思い起こさせるように、飛び跳ねたり、踊ったりしながら... でも、歌っているヴォーカリストは41歳のピッキオ。なんでも10代後半を頭に3人の娘を持つ親父で、彼だってイタリア映画にでも出てきそうな、人のいいおっさんに見える。
が、ステージから放たれるエネルギーは、期待はずれのダイナマイトのようなコンサートを体験させてくれたパイレイツにも匹敵する。あの時だって、ステージに向かっていく中年親父の3人を目にして、まさかあんな親父達がミュージシャンだとは思えなかったし、ましてやあれほどまでワイルドにロックするとは思ってはいなかった。ところがいい意味で期待を裏切ってくれたのがこの親父達。結局、とんでもないウルトラ・ヘヴィー級のロックを体験することになったのだ。ミッシェルガン・エレファントが敬愛するバンドということで、彼らが企画の中心になったライヴだったが、パイレイツを体験した後にミッシェルガンを見ると、文字通り、「大人と子供の違い」を感じたものだ。(といっても、もちろん、パイレーツが異常にぶっ飛んでいるんであって、ミッシェルだって最高よ!)
いわば、それと同じような光景が目の前で繰り広げられている。しかも、演奏の熱さを加速させているオーディエンスもとんでもない。普通なら、嫌われそうな親父世代のミュージシャン達の歌がまるで自分たちの声であるかのように、拳を突き上げながら、大声で歌っているのだ。オーディエンスの中心は、おそらく、10代だろう。そのノリは、まるでサッカーの試合にやってきたサポーターのようでもあり、ヘタをすると暴動にでもなってしまいそうな熱気を帯びている。これほどまでにバンダ・バソッティが支持されているとは... 実際に彼らのライヴを体験するまでは全く想像できなかった。
初めて彼らの存在を知ったのは、昨年4月。スリーピースのヨーロッパ・ツアーを取材したときだった。このとき、ドラムスの梶君に機材を貸してくれたのがバンダ・バソッティのドラマー、ペペ。そんなこともあり、シガロとピッキオ、それにペペとはライヴの会場や、プロモーターであり、インディ・レーベルでもあるグリダロ・フォルテが経営する、ヨーロッパ唯一だろう、スカ・パブ(!?)のサリー・ブラウン(スカのゴッドファーザー、ローレル・エイトキンの曲名に由来する)で一緒に飲んだりしていたことがある。
といっても、このとき、彼らがこれほどまでにとんでもないバンドだとは想像もできなかった。なにせ、深夜2時頃になると「いやあ、明日は朝から現場の仕事が入っていて...」と帰ろうとするのだ。話を聞くと、なんと彼らの仕事は会場設営とか建設現場でのとび職のようなもの。実際、肩にかけていたバッグにはそんな仕事道具が入っていたし、どう見てもロックをやっているようには見えなかった。噂では彼らがローマで1万人近くのオーディエンスを集めたというのだが、彼らの表情からそんなイメージは全く沸いてこなかったのだ。
ところが、それから数ヶ月後、グリダロ・フォルテから送られてきたのができあがったばかりの2枚組ライヴ・アルバム『Un Altro Giorno D'Amore』。これがいい。傑作なのだ。ヴォーカルが音をはずしたり、間違った音がちらっと出てきたり... そんなところを気にする人たちにはどう聞こえるかは知らないが、これこそドキュメントであり、ライヴ&ダイアレクト。ともかく、熱いのだ。バンドが演奏しているその背後からは怒濤のような観客の歌声や叫び声が聞こえてくる。しかも、その興奮ぶりが異様なほどに熱気を帯びている。演奏がうまいとかヘタだとか、そういった次元を遙かに越えて圧倒的な会場の熱がとんでもない迫力で伝わってくるのだ。その感覚はライヴ・アルバムの傑作として名高いボブ・マーリーの「アット・ザ・ライシアム」やアスワドの「ノッティングヒル・カーニヴァル」に近い。
これを聴いたとき、またまたイメージ・ギャップにとまどうのだ。「なんだぁ! この親父達は?」いったいなにがオーディエンスをここまで熱くさせるのか、そこには音楽を遙かに突き抜けたなにかがあるはずだ。が、何がどうであれ、まずは彼らのライヴを体験したい... そんな思いに駆られるようになっていた。
「年末にバンダ・バソッティのスペイン・ツアーがあるんだけど、取材にこないか?」
と連絡が入ったのは、12月中旬。年の瀬で忙しさがピークに達しようとしていた頃だ。が、迷うことはなかった。はたしてフライト・チケットがとれるのかどうかはわからないが、ともかく、チケットが取れるのなら飛んでやると決意。そして、幸運にもチケットが入手できたのは18日。翌19日には成田からスペインはカタロニア地方のバルセロナに向かっていた。
着陸したのは同日夜の9時半頃。空港で両替していると現地のスタッフが迎えに来てくれていて、そのまま会場へ直行だ。川崎クラブチッタにも似た小屋、Razzmatazzではすでにバンダ・バソッティが演奏を始めていて、興奮のるつぼと化しているフロアの観客の中をくぐり抜けて楽屋に向かう。マネージャーなどへの挨拶もわずかに、大急ぎでフォトピットに飛び込んでいた。そこで目撃したのが前述のライヴの光景だ。
この日は結局、ライヴ終了後ホテルに向かい、翌日はラジオ局でのメンバーのインタヴューに同行。なんでも、クイーンの歌に登場する『Radio Gaga』に関わり合いのある放送局らしいが、現地スタッフのわけのわからない英語での説明なので、本当のところはわからない。また、彼らの会話はスペイン語。(言葉が非常に似ているので、イタリアのバンドは多くがスペイン語を理解し、スペイン語圏でもアルバムなどを発表している)というので、彼らが何を話しているのかさっぱり理解できない。が、政治的な言葉がちらちら聞こえてくるところから、そういった話題が中心だったように思える。
インタヴュー後には次の町、Roda de Terに移動している。なんでも標高1000mぐらいのところにある町で、会場は映画館を改造した小屋。現地の人によると、「バンダ・バソッティは自らのリスクを犯してでもこんな町にも来てくれる。それが嬉しいんだ」とのこと。こんなところにも彼らの姿勢が見てとれる。
その日のライヴが始まったのは午前2時。終了するのは午前4時にもなる。おそらくハードなパフォーマンスで疲れているはずなのに、「次の町は1200km離れているから、このまま移動なんだよ」とヴォーカルのピッキオがハンドルを握り、徹夜でのドライヴだ。移動に使われている車は2台。乗用車に4名が乗り込み、機材などを積んだワゴンに9人が膝をつき合わせてスペイン最北西端の町、ガリシアに向かうのだ。ガリシアでの会場は体育館を使ったイヴェントで、暖房装置もなにもない寒風が入り込むような会場だ。楽屋もシャワー室を使ったもので、ちっぽけな電気ヒーターが1台置かれているだけ。時には洗った手を乾かす乾燥機で暖をとったりしながら、ここでも彼らがステージに上ったのは午前2時。スペインではヘッドライナーが登場するのがそういった時間になるのだが、バンダ・バソッティの連中はそんなことを気にもかけてはいない。それどころか、1200kmの距離を移動してやってきた彼らがここでも圧倒的な熱演を繰り広げている。翌日はさらに800kmを移動して、バスクの町、パンプローナでの公演だ。数々のバンドを集めてのここでも彼らの登場は午前2時。他の会場よりも短いセットで、彼らのあとにまだバンドが登場するというのは驚きだ。
結局、この町から国境をふたつ越えて翌日にはイタリアのローマまで戻っていくのだが、この4日間のツアーでの移動距離は5000kmを越えていただろう。が、メンバーの誰ひとりとして不満を漏らすこともなく、喜々としてツアーを続けている。しかも、あれほどタイトなスケジュールで旅をしながら、演奏は手抜きなしのとんでもない迫力の連続で、同時に、どの会場でも熱狂的に彼らを受け入れるのがファン。その年代も若い人たちが中心となっているというのが面白い。それに、バルセロナではカタロニアの旗が、パンプローナではバスクの旗が翻り、最終日には政治犯の釈放を求める運動をやっている連中がステージ・ジャックをするというハプニングもあった。といっても、メンバーはそれを見てほほえみながら演奏を続けていて、なんの問題にもならなかったが、こういった動きのなかで彼らがどんな場所にいるのか... おおいに気になったものだ。その彼らとインタヴューできたのはローマ。クリスマスの日に、彼らのレーベル、グリダロ・フォルテ(大声で叫べという意味)の事務所でじっくりと話を聞くことになった。
事務所に現れたシガロとダヴィデによると、バンダ・バソッティとはもともとディズニー漫画のキャラクターのことで、英語ではビーグル・ボーイズ。どうやらディズニーのキャラクターは各国で呼び名が違うのだそうで、ミッキー・マウスは、イタリア語で言うと、トッポリーノ。そうもそこにでてくるキャラクターで囚人番号の付いた服を着ていたりするのがバンダ・バソッティなんだそうな。
「学生時代から一緒に建築現場とかで仕事をしていて... みんなが出会ったのは81年頃でね。全員スキンヘッドで、まぁ、あのキャラクターみたいだったから、俺たちのことをみんなこう呼ぶようになったんだよ」(ダヴィデ)
と、実は、バンド結成以前からバンダ・バソッティと呼ばれていたのがバンドのメンバーたち。その当時から、スペシャルズやクラッシュといったロンドン経由でイタリアにやってくるパンクや2トーンの音楽が好きで、地元ローマのパンク・バンドのライヴにも一緒に出かけていく悪ガキたちの集まりだった。といっても、ステージ設営などの仕事をしていた彼らが中心的に動いていたのは、「反人種差別」や「反ファシズム」を訴えるイヴェントの数々。当然ながら、ただの仕事としてそんな活動をしていたのではなく、彼らの抱える政治的な意志や姿勢がそういった仕事に向かわせていったというのが正しい。
その頃、あるバンドで曲を書いたり、一緒に演奏していたのがシガロ。ところが、このバンドが解散し、「音楽とは無関係な人間たちでバンドを作ってみたい」と思った彼が声をかけたのがバンダ・バソッティの仲間たちだった。シガロの他のメンバーは、ほとんどが楽器も手にしたことがないずぶの素人。現在、リード・ギターを演奏しているスコーパも、レーベルの中心人物となって動いているダヴィデもこの時は10人もいたヴォーカル・チームのひとりだった。そんななかで彼らが演奏を始めていくのだ。といっても、「ただの趣味」ではなく、なによりも自分たちの意志を伝える手段として選んだのが音楽。プロとしての職業的なバンド活動など、全く眼中になかったというのだ。
ところが、その演奏が評判を呼び、いろんなところから「やってみないか?」あるいは、「演奏してくれ」という話が転がり込んでくるようになっていった。このあたり、政治運動からバンドに発展したロスのオゾマトリにも接点をも持つ展開なのだが、バンダ・バソッティのメンバーには「バンドで飯を食う」という発想は全くなかったという。なによりも彼らは労働者であり、その表現の手段として音楽があり、バンドがある... ということなんだろう。毎日毎日10時間近くも汗水流して働きながら、週末になると、自分たちで経費まで出して演奏に出かけていったというのがその頃だ。
さらには、全員でニカラグアに向かって1年に渡るヴォランティア活動をしていた時期もある。『サンディニスタ』というアルバムを発表して、アメリカの中南米政策を糾弾し、抵抗勢力であるサンディニスタの存在を知らしめたのがクラッシュなら、そのサンディニスタを助けるために現地に向かったのがバンダ・バソッティ。建設業で培ってきた技術を生かし、現地で学校建設などの作業をしていたのだという。この時、メレンゲやサルサなどを吸収したというシガロは、帰国後、再びニカラグアを訪ね、また長期に渡ってヴォランティア活動を継続。彼らがただ口にするだけではなく、現実に動くアーティストたちだというのがこんな話からも容易に想像できる。
そんな彼らが91年、大規模な「反人種差別」「反ファシズム」を訴えるフェスティヴァルを企画。そのタイトルは、「大声で叫ぼう、反人種差別、反ファシズム」というもので、その「大声で叫ぼう」というイタリア語、Gridalo Forteがそのままレーベル名となって、このフェスティヴァルへの参加バンドのコンピレーションを制作する。これがバンダ・バソッティのデビュー作となっている。
レーベルを設立したのは91年。が、レーベルの第一弾は、彼ら自身の作品ではなく、その政治的な活動の流れで、親密な関係となったバスク地方のバンド、初めてバスク語で全曲を歌っていた、今や伝説となっているバンド、ネグ・ゴリアックだった。その前身となるKortatuから、ネグ・ゴリアック、そして、ダブ・マニフェストと、このバンドの中心人物であるフェルミンとは20年近くに渡って共闘していくのだが、これが後にバンダ・バソッティに大きな転機をもたらしていくことになる。
面白いことに、同じ頃、フェルミンはバスク語で歌うバンドを積極的にサポートするためにバスク地方はイルンという町にエサン・オゼンキというレーベルを設立しているのだが、このエサン・オゼンキもバスク語で「大声で叫ぼう」という意味。しかも、その第1弾のアルバムがグリダロ・フォルテと同じ作品となるのだが、これは全て偶然の一致だったということだ。が、どこかで変えらが互いに呼び合っていたのだろうという気がしないでもない。
一方でバンダ・バソッティはハードな活動のプレッシャーにおそわれるようになっていた。なにせ、前述のように、ギャラをもらうのではなく、逆に自分たちで金を使ってまで「運動するために」演奏していったのが彼ら。さらには、右翼の徹底的な圧力や暴力にも直面していた。警官に囲まれてライヴ会場に行ったこともあれば、右翼が人間の頭ほどもある岩の固まりを投げつけてきて車の窓をぶち割られたこともある。さらには、真正面から衝突して暴力沙汰になって留置場にも入れられたこともあるのが彼ら。精神的にも体力的にも限界に達しようとしていたのが90年代の半ばだったらしい。ちょうどそんな頃、大きな圧力に直面していたのがネグ・ゴリアック。エサン・オゼンキ、そして、グリダロ・フォルテの1枚目の作品となったアルバム『GURE JARRERA』に収録されている曲『USTELKERIA (ROTTENNESS)』が裁判沙汰になっていったのだ。
この曲で彼らが糾弾していたのは、当時の治安警察部隊のチーフであった人物。捜査で押収した大量のコカインが紛失した事件で、警察内部にある汚職をテーマに歌っていたのだが、これに対して警察側がネグ・ゴリアック、そして、その発売元であるエサン・オゼンキを告訴し、実を言うと、第1審でネグ・ゴリアック側が負けるという事態に直面していたわけだ。
これは「表現の自由」に対する明らかな挑戦であり、その圧力に対する徹底抗戦を決めたのがバンドのメンバーたち。そして、それに対して全面的なサポートを約束したのが同じアルバムをイタリアでリリースしているグリダロ・フォルテであり、その中心的なバンド、バンダ・バソッティだった。彼らは長期に渡る裁判闘争のための資金作りとして共同で大規模なツアーを企画。この時、「裁判に勝つまでバンド活動を休止して、裁判に勝ったら再び一緒にツアーしよう」と誓い合ったのだという。
ちょうどその前あたりに発表されていたのが、どこかにクラッシュを彷彿させるこのアルバム、おそらく、彼らのスタジオ録音としては最高傑作の『Avanzo de cantiere』だ。残念ながら、これは日本未発表だが、チャンスがあれば、ぜひ手にとって聞いてもらいたい作品だ。おそらく、バンドとして脂がのりきった時期の録音だったんだろうだが、同時に、体力と精神力の限界を感じていた彼らは、この共同ツアーを機に活動を休止し、シーンから姿を消していたのだ。
が、その6年後、フェルミンから連絡が入ってくる。なんと彼らは法廷闘争に完全勝利し、当時の約束を形にすることになったのだ。まずは、ネグ・ゴリアックの地元、バスク地方で共同で数本のライヴを敢行。すでに、解散し、メンバーそれぞれが独自の活動をしていたネグ・ゴリアックはこの時だけの再結成で集結し、とび職や身体障害者の介護士などの仕事に戻っていたバンダ・バソッティもこれを機に再結成を決定。バスクだけではなく、ローマでもネグ・ゴリアックのメンバー、フェルミンと、現在ではプロデューサーとして活動するカキをゲストにライヴをすることになったのだ。実を言えば、その時のドキュメントが『Un Altro Giorno D'Amore』だった。
「おそらく、3000人も集まってくれば大成功じゃないかなぁ。6年前は5〜6000ぐらいだったから」
と思っていたのがメンバー。ところが、ふたを開けてみれば、会場に集まってきたのが9000人の人々。しかも、彼らが活動を停止したときにはまだ子供だった10代の若者がその中心だ。これにはみんな驚きを隠せなかったというのだが、同時に、6年のブランクをおいても全く色あせることなく輝きを増していたのが彼らの演奏してきた曲の数々。加えて、「当時以上のエネルギーも感じたし、自分たちの演奏もよりタイトになっていたんだ」と語っているのはシガロ。しかも、バンダ・バソッティの前線復帰を求めていったのはそんな若いオーディエンスだった。それが彼らの復活につながるのだ。
とはいっても、今もそれぞれのメンバーが職を持ちながら活動を続けているというのが実情だ。3月に発表する予定のアルバムの曲作りのために、作曲の中心人物であるシガロは現在、休職中だが、ピッキオは「抜けたら仕事にならない」という仲間のこともありとび職を続けている。ドラムのぺぺは駐車場の整理係であり、ギターのスコーパは身体障害者の介護士として職業を持っている。今も昔も、バンダ・バソッティは労働者階級のバンドであり、その姿勢は全く変わってはいないということだ。
もちろん、以前のように、バンドでの全活動を政治運動に捧げるという状況ではなくなっている。必要があれば、年老いて生活保護も受けられないようなパルチザン(第2次世界大戦時にヒットラーに対して闘った抵抗運動をイタリアではこう呼んでいる。フランスでのレジスタンスと同じもの)のリーダーへのチャリティなど、必要な状況があれば、喜んで無料で演奏するということはあるのだが、バンドとして通常のライヴ活動を行っていくということは確認しあっているとのこと。といっても、かつてのバンダ・バソッティがあまりにまじめであり、真剣でありすぎたというだけで、これが当然なあり方だと思う。
「ただ、誤解して欲しくないのは、政治のために音楽があるのじゃなくて、そのために音楽を利用しているんじゃない。自分たちの声をロックにしたとき、それが政治的だったというだけのこと」
日々の生活や現実から歌が生まれれば、それが政治的なものとなってもおかしくはないだろう。なぜなら、それは彼らの叫びであり、訴えなのだ。だからこそ、絵空事の「政治」ではなく、血が流れ、肉を持つ普通の人たち、労働者階級の「政治」や音楽が生まれて来る。それがバンダ・バソッティの音楽でありロックなのだ。
すでに、このライヴ・アルバムは10000枚近いセールスを記録。インディ・レーベルのへのこだわりを捨て、流通だけでもメジャーを使えば、格段のセールスを獲得できるというのに、「いや、僕らは全てを自分たちで管理し、作っていくことを捨てることはできない」と今の姿勢を貫き通そうとしているのがダヴィデ。看板だけの「インディ」やスタイルだけの「パンク」が幅を利かせている21世紀初頭に、おそらく、世界でも希な真摯な姿勢で活動を続けているのがグリダロ・フォルテであり、バンダ・バソッティだ。そんな彼らがいつか日本でも聞かれるようになってくれれば、嬉しいのだが...
photo and report by hanasan
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