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このアルバムが発表されたのは今から35年ほど前に遡る。当時、まだ高校生だった筆者にこのアルバムが大きな衝撃を与えてくれたことは、すでに有馬理恵という役者がやった一人芝居 - 釈迦内柩唄(しゃかないひつぎうた)に関してのレヴュー、「直視せよ」で記している。
そんな昔のアルバムを今なぜまた取り上げなければいけないのか...と、思うのだが、今こそこういったアルバムにじっくりと耳を傾ける必然性を感じるのだ。もちろん、アルバムそのものが持つ歌や演奏の素晴らしさは35年の今を経ても全く色あせることはない。傑作だという意味においていつの時代にも聞かれるべき作品だとは思うが、それでも、やはり今なのだ。
このアルバムが作られた当時といえば、70年安保闘争のまっただ中。第二次世界大戦の反省の上に立って作られた、まるでジョン・レノンの名曲『イマジン』がそのまま文章化されたかのような日本国憲法が骨抜きにされ始めた頃だった。
あの裏(本当の)話をすれば、GHQ(連合国最高司令部)によって創案されたこれが、実は、あまりにも民主的で平和主義的であること、すなわちあまりに素晴らしいがために、対共産圏へのアメリカ戦略にとって足かせとなってしまったという経緯がある。その契機が50年の朝鮮戦争。面白いことに、その前夜に起きたのが日本の左翼(のみならず、リベラルな)運動に大きな打撃を与える三鷹事件、下山事件、松川事件。すでに陰謀説が支配的な一連の犯人が共産党員だというでっち上げで運動は弱体化され、その結果、自衛隊の前身である警察予備隊が生まれているのだ。そして、これが2年後には保安隊なり、その2年後に現在の名前をいただくに至っている。実際のところ、憲法を最も遵守しなければいけないだろうこの国の首相までもが『軍隊』だと語る(アホ以下ですな、この人は。自分で憲法違反だって口にして... その首謀者が自分だってことじゃん。なんで首にならないの?)存在にまで大きくなってしまったわけだ。
そして、日米安全保障条約が日本の軍拡に決定的な要因を与えることになる。『日本の安全を保障する』というお題目の下、実際には、対共産圏への防波堤(要するに前線基地)として、現在約5万弱の米兵が約140の米軍施設に常駐しているのが現状なんだが、そこに自衛隊の軍備を加えたものが日本の戦力だ。
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
*英語の原文によると「陸海空軍その他の戦力」どころか、その可能性のあるものさえをも保持しないとある。
その憲法9条と現実がまるで違っていることは明白なのだが、もし、これがなかったらどうなっていたかと想像すると、寒気がする。だからこそ、憲法改正の動きにめちゃくちゃな危機感を持っているのだが...
岡林信康のデビュー・アルバムとなるこの作品が生まれたのは、そんな日本の戦前回帰傾向の根幹をなす日米安全保障条約が自動延長されることになった70年6月からしばらく前に遡る。ベイビー・ブームを経て戦後生まれた学生が大多数だった時代、まだどこかに新しい世代が現実に世界を変える可能性を大きく秘めていた時だった。
同時に、本人がどれほど政治的な意識を持っていたのか、想像するしかできないが、あの時代、政治が否応なしに我々に襲いかかった来たのは確かだし、その波にもまれた彼が意識的にも無意識的にもきわめて政治的な色彩を持つ作品を生みだしていったのも当然だろう。
ここには傑作と呼ぶにふさわしい反戦歌が収録されている。戦時中、カタカナの名前を禁止されたにもかかわらず、サトー・ハチローと名乗り続けて、そのさなかに書いた名作「モズが枯れ木で」をバックの演奏もなしにアカペラで歌う岡林のたんたんとしたその声にぼろぼろになった人も多かっただろう。それに、おそらく、山谷のドヤ街に飛び込んでいった頃に書いたのだろう、後に、確か、森進一も歌っていた名曲「山谷ブルース」や、数年後に山平和彦が歌った「放送禁止歌(現在はこのボックス・セットでしか入手不能」の作詞家として脚光を浴びることになる白井道夫が、高度経済成長の犠牲となって死んでいった出稼ぎ労働者を歌った「お父帰れや」、そして、「直視せよ」で書いた、部落差別問題に真正面から対峙した「手紙」に、ボブ・ディランの名曲「戦争の親玉」を高石友也というシンガー&ソングライターが訳詞したヴァージョンなど、明らかに政治的な曲がここに収められている。
といっても、それが押しつけではなく、聞くものをストレートにその歌の世界に引き込んでしまうという意味で、このどれもが名曲だと思う。同時に、エリック・アンダーソンのラヴ・ソング、「カム・トゥ・マイ・ベッドサイド(おいでよ、僕のベッドに)」やトム・パクストンというシンガーの傑作、「ランブリング・ボーイ」のカバーも素晴らしい。
ワッツ・ラヴ?がカバーした「今日を越えて」という、実にポジティヴな曲も素晴らしいのだが、今... というよりは、この歌を聴いた子供の頃から今までずっと、多くの人たちに聞いてもらいたいと思っていたのが「それで自由になったのかい」という歌だ。
「いくらブタ箱の臭いまずいメシがうまくなったところで、それで自由になったのか?」
そう問いかけるこの歌に今の時代を感じるのだ。自由を謳歌しているように思える今の時代、平和を謳歌しているように思える時代、とりあえずはなに不自由なく生きているように思える時代に僕らは生きているように思ってはいないだろうか。でも、これは本当に自由なのか?これが本当に平和なのか?僕の疑問はつきない。
沖縄から米兵がイラクに行ってファルージャで、あるいは、ナジャフでイラク人を虐殺し、その兵士を輸送しているのが「自国を守るための自衛隊」だという事実。人道支援という名の下に、1本40円で購入可能な水を作るために莫大な税金が費やされる。押しつけられた政府アレンジのフライトに強制的に乗り込まされた、あの日本人の人質たちが「血税を無駄にした」と攻められる一方で、周辺に迫撃弾が撃ち込まれたからと9日間にわたって最も安全で空調私設の整った御殿のようなテントでなにもしていなかった自衛隊員にひとり1日3万円の手当が出されているということの方が血税の無駄使いだろう。しかも、やっとオリンピックにでられることになったイラクのサッカー・チームの給金が一月で150ドル。こんな猿芝居を「国益」だと称してやっている政府の下で、それを拒絶することなく生きている僕らは、本当に平和なのか?本当に自由なのか? いうまでもなく、年金が値上がりし、もらえる金が減り、政治家はあぶく銭を使い倒している一方で、否応なしに税金を払っている僕らが豊かなのか?
自衛隊撤退を求めたビラを配っただけで捕まって、何ヶ月も拘置所に入れられるこの国が、本当に自由なのか?そんな「政治的な」ことだけではなく、自由に音楽を聴く権利までがおかされ、高くてCDプレイヤーが壊されるかもしれないような企画のCD、しかも、音質が悪くなるような代物を買わざるを得ないような状況に追い込まれることが、本当に自由なのか?
そんな時代に生きているからこそ、このアルバムを35年をへた今、みなさんに聞いてほしいと思う。
reviewd by hanasan
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