Mishkas at FRF(1999年8月1日)

Mishka  僕はミシカを知らない状態でフジロックに来ていた。

 現地で知り合った人と、仲良くなって、お互いのお気に入りのCDを聞き合い勝負をした。お互いが、相手が持ってる聞いたこと無いCDを選び、それが良かったら「まいった!」と言わなければ駄目という単純なゲームだった。カードゲームみたいな感じである。 お互いが20枚くらい、苗場にCDを持ってきていた。僕は当時まだ1stも発表されてない頃のincubusのミニアルバムでそいつに「まいった」を言わせ、僕が「まいった」を言ったのは、mishkaというアーティストであった。

 CDで連想した風景は、夕日の海浜、しかも島。緩やかに流れる太古からの地球の時間。それを垣間見る、そんな印象だった。

 フジロックでは昼に登場した。が、青空をバックにまたハマッていた。生で見たイメージは、CDで感じる繊細さは伝わってきた。物静かな、ほのぼのとしているような、映画「バスキア」でジェフリーライトが演じたバスキアのような雰囲気だった。とにかく無駄な力が抜けていく。やさしい歌。ホワイトステージが法治国家で無くなる瞬間だった。海外のどっかの島で簡素に作られたステージで唄っているかのような。

 ノル、とかそういう感じではなく、浸る。

Mishka  ミシカは、よくボブマーリーと比較されていたようであるが、僕が聞いた感じ、共通点と相違点がある。(ボブの方はさすがに生で見た感想ではないが)

共通点。

 ナチュラルであること。声の素直さ、声色も、その声の伸び具合もボブマーリーのRedemption Songのような弾き語りによく似ている。

相違点。

 ボブマーリーには、明らかに彼のこころの背景とでも言えばいいのか、そのバックボーンに、「ジャマイカで虐げられた民衆」が存在し、その唄声にもその存在をビリビリと感じる。が、ミシカにはそれをまったく感じさせない。あくまで孤独という意味ではなく、原点がじぶん独りで、遠くまで届け!という感じではなく、近辺に届けばいいかな、という感じで発信されているような唄声である。

 また、共通点である、枯葉のようなこころの底から発信されているかのような素直なボーカル。その素晴らしい声にあるまでの過程も、 ボブは、いろいろな喜怒哀楽を経て、ときには地獄も通過しただろう、そんなさまざまな修羅場を経てやっと無駄な力が抜け、悟った心の祈りの声のように聞こえるが、ミシカは、生まれつき出ている、まさにnaturalな感じがする。生まれたときから(僕たちは生きていて失ってしまう)ある感覚。それをそのまま唄っているだけ、みたいな。

Mishka  要は、誰のために唄っているか。その相違が大きいと感じた。とはいっても、ある意味、別にみんなのために唄っていない(上手な言い方をするなら、ボブマーリーほど、みんなのために唄っていない)からといって、音が悪い云々の問題ではない。が、そういう視点で比べると、迫力、存在感に欠けるのもまた事実ではあった。

 1日目、2日目とリンプビズギッド、レイジアゲインストザマシーンなどで疲労がたまっていたせいもあるが、あまりの気持ちよさ、リラックスな雰囲気にウトウト、そして眠モードに(笑)ステージ後方で横になりながら聞く。まるで自分の横を気持ちいい風が流れるようにメロディは流れていた。

 フジロックを後にして、僕のガチンコCD聞かせ合い勝負に、mishkaという最強のカードが手に入った。今日現在まで、mishkaを聞いて「まいった」を言わなかった人はいなかった記憶がある。そしてこれからもそう簡単には破られないCDであると思っている。

Reported by Taku Katayama

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