Save the 下北沢
音楽や演劇が生まれる背景には人と人の出逢いがある。下北沢がそのメッカとなっているのは、町に漂う独特の一体感が深く関係しているように僕は思う。昔ながらの商店街がある一方で、学生、ミュージシャン、演劇人などがたむろし、酒の場でたまたま隣り合った人と何の警戒心も無く会話が弾む。深夜どころか朝を迎えても飲み歩く人達と、早朝から働き出す人達、そして週末に遊びに来る人達。このように普通だったらなかなか接点が無さそうな人々が、いつの間にか互いに顔見知りとなってしまう面白さは、はっきりしたカラーを主張する店がところ狭しとひしめき合い、そこに通う常連がいてこそ生まれるマジックであり、下北沢の最大の魅力だ。
しかし今、現地ではそんな街並みを、環七並みの大きな道路で分断しようとする計画が進められている。茶沢通りに面したシネマ下北沢から小田急線を横切り、北口の商店街を真っ二つにする形の補助54号線という道がその正体だ。
9年後の完成を目指していると言われる小田急線の地下複々線化の決定と同時に急速に浮上してきたこの計画は、実は決して新しいものではない。その原型は、なんと半世紀以上も昔の米軍占領時の1946年にまで遡る。道路を高架にするかしないかといった修正は何回か行われてきたものの、基本的なルートは当時のまま。それゆえにこの半世紀で育んできた町並みをばっさり分断するという、まるでタチの悪い冗談のような形状になっているのである。
もし補助54号線が現在の計画のままに完成した場合、下北沢は車道で分断されるだけでなく、高層化が進み、町全体が機能的に分化されることになるだろう。「それで良いじゃないか」と言う向きもあるかも知れない。だがちょっと待って欲しい。現在の下北沢の特徴は、昼夜を問わず人がウロウロと歩き回り、店に立ち寄ることが出来る回遊性にある。そこから生まれる人と人の近さが、女性が明け方に一人で歩いていても大丈夫なだけの治安の良さを生んでいるのだ。
個人的な体験だが僕自身の実家は、同じ東京でも東端の金町にある。いわゆる下町という言葉で親しまれていた地域だ。もちろん幼なじみ同士が多数暮らす町ならではの連帯感を保とうとする動きもあるのだが、そこですらベッドタウン化が進行するに連れ、昔ながらの住民と新規住民の接点は薄れつつある。小学校の同級生の実家も多数ある商店街が寂れて、閉店した跡地が駐輪場になっていたりするのを見ると、なんともやりきれない気分になる。機能性が高まったからといって、町自体が栄えるか、多くの人が愛着を持って暮らすことができる町になるかどうか、というのは別のことなのだ。
そんな僕には、中低層の建築物が雑然と立ち並ぶ下北沢の町並みが育む人間関係は、核家族化が進行してきた日本の都市生活の未来に対する積極的な価値を内包しているように思う。そもそも音楽や演劇に代表される文化的な土壌を考えると、雑然とした人間同士の関わり合いを大切にする町の包容力こそ、掛け替えのない財産と言えるだろう。
こうした場に文章を書いて生計を立て、実際に下北沢で暮らしている僕にとってもこれは重要な問題だ。そうした意識で僕が昨年末から関わっているのが、補助54号線の建設に反対する“Save the 下北沢”というムーヴメントである。この町で生まれ育った建築士、元交通解析員、デザイナー、商店街で営む飲食店主、さらにそこでアルバイトをしている女性など、20代〜70代にまで及ぶ顔ぶれの多彩さは、まさに下北沢的な雑居感覚に富んでいる。
現在“Save the 下北沢”のホームページには、下北沢に住むフジ子・へミングをはじめ、ソウル・フラワー・ユニオンの中川敬、村上“ポンタ”秀一、くるりの岸田繁、遠藤賢司といったミュージシャンの方々の賛同メッセージも集まりつつある。是非一度御覧になって欲しい。そして趣旨に賛同していただける方は、活動への支援をお願いします。今後の“Save the 下北沢”は、都や区に対しての署名活動などはもちろんだが、54号線反対のためのコンサートなども計画中。出演希望の方は、有名無名を問わず、ホームページに掲載されているメール・アドレスへのコンタクトもよろしく!
なお、これは「MUSIC MAGAZINE2004年5月号に掲載」された記事を投稿という形でいただきました。 |
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