沖縄小旅行 〜国際通りの喧噪と喜納昌吉&チャンプルーズ、基地の町嘉手納へ〜 ( Mar '04)
二月に高校を卒業したばかりの地元沖縄出身の18歳、宮里藍が、女子プロゴルフツアー史上最速のプロ転向146日目での優勝を成し遂げたダイキンオーキッドレディース最終日。その日の夜、那覇市内のハーバービューホテルで行われたフェアウェルパーティでは、宮里藍本人や長々としたスポンサー企業の会長のスピーチもひととおり終わり、子供たちの琉球舞踊といった出し物が催されていたパーティ会場を早々に抜け出して、僕は、山の手の閑静な住宅街から観光客でごった返す国際通りの喧噪へと、歩を早めた。
久々の那覇市内は、空港から首里城へと伸びるモノレールに象徴されるように、開発が進み、どこの政令指定都市にも負けないくらいの都会になっていた。那覇空港にランディングするときに飛行機の窓から見える海岸沿いにも、建設中の道路かモノレールの高架橋がいくつも見え、海岸線は日に日に削られ、コンクリートで補強され、整えられていく。ほんの十年前には、なんの変哲もない土産物屋や米軍払い下げ品を売る店のくたびれた建物に、気だるい日射しが降り注ぐなか、人々の活気だけが際立っていたような印象の国際通りも、OPAやスターバックスや全国チェーンの飲食店が立ち並び、明るく小綺麗に建て変わったどの土産物屋にも、ブームを反映してか泡盛や古酒の瓶がずらりと並べられている。行き交うのはほとんど観光客か地元の女子高生だから、まるで竹下通りのような感じだ。
ちなみに、泡盛を買うなら地元のふつうの酒屋を探せば、同じものが土産物屋や空港で買うのと半額以下の値段で買える。例えば〈残波〉の白で、土産物屋では四合瓶が1,500円程度なのが、酒屋だと一升瓶で1,300円とちょっと。国際通りの居酒屋で泡盛がグラス一杯6〜700円なのだが、通りを少し裏に入って久茂地や久米辺りの居酒屋や郷土料理屋では、同じ値段で古酒が一合出てきた。水割りだと4杯は飲める量だ。どうやら国際通り価格があるらしい。それも、良くも悪くも『観光地』たる由縁なのだろう。
そんな国際通りのちょうど真ん中にあるライブハウス・チャクラでは、喜納昌吉&チャンプルーズが、観光客相手に夜な夜なステージに上がっている。八時から十時半までのステージに、民謡と琉球舞踊から始まって、チャンプルーズが登場したのが九時を過ぎた頃。セットチャンジの15分間に、『すべての武器を楽器に』というスローガンのもと彼らがこれまでアピールしてきた平和活動や、戦争前に訪れたイラクでのライヴ、NGOピースメーカーズネットワークの活動を綴ったビデオが上映される。それが終わると間髪を入れず、オレンジの琉装の袴に黄色の派手なTシャツを着た男女がステージに上がり、三線教本のセットやNGOのスローガンを入れたステッカーなどのグッズの紹介を始めたから、興醒めした。なんだかノリが宗教団体と紙一重なのだ。揃いの派手な衣装に身を包んだメンバーやスタッフのなか、喜納昌吉本人はきまって一人だけ白い衣装を着ているし。
ただライブは素晴らしい。ここぞとばかりに貪欲にリゾートを求める観光客相手に、ほぼ毎晩、40分足らずの短い時間にルーティンなステージをこなしているのだと思うのだけれど、にもかかわらず、「昇り詰める」とか「キレる」とかそんな瞬間があるのだ。とくに喜納昌吉がギターから三線に持ち替え、明るい琉球音階をブチンと弦が切れんばかりに速弾きし、エイサー太鼓がひらひらと踊りながら乱入しての数曲は、ライブの醍醐味というか、圧巻でトランシーですらある。80年代のチャンプルーズのライヴ映像を今になって見ると、ロックに沖縄、ブルースに民謡、それにハワイなどの他のレイスミュージックの要素がごちゃ混ぜになっていて、熱気は、まるでマヌ・チャオのライヴのようだし、今バルセロナを中心に盛り上がっている"メスチサーヘ"も、"チャンプルー"も、ともに『混ざった』という意味だ。どちらも、様々な民族的音楽的要素、そのブラッドラインがごった煮になって、軽く沸点を超えていくようなパワーがある。
お客さんのなかにウチナンチュが多かったことも手伝って、狭いライブハウスのステージ前はあっという間に両手をかざして踊る人垣でいっぱいになった。『ハイサイおじさん』では「ハイ」という間の手が、踊りながらも自然と大声で入る始末。そのなかには東京から来たと言っていた年配の夫婦もいて、ふだん音楽に合わせて踊ることなんて、あっても年に一回の盆踊りくらいかもしれないのになあ、そう思うと見ていてとても幸せな気分になる。
「私は将来、自衛隊のみなさんを植木職人にしようと思ってるんですよ。それで木を植える。ゼネコンも自然を破壊するんじゃなくて、自然を守るのなら、どんどん儲けてもらってかまわない。ね、どうせお金を使うなら、良いほうに使うほうがいい」
朴訥として暖かみのある琉球訛りで、喜納昌吉がお客さんに対して語りかける。
「ブッシュの心に、花は咲くでしょうかねぇ? え、咲く? 今日のお客さんは心が広いなぁ。ブレアは? 小泉さんの心に花は咲いていると思いますか? みなさんの心に花が咲くように、『花』を歌います」
やはり最後の曲は『すべての人の心に花を』だった。セットチェンジの15分間、チャンプルーズのサイン会と撮影会を行います、とアナウンスが入る。この日のトリは喜納昌永民謡グループ。観光客の大半がチャンプルーズが終了するとそそくさと店を出ていき、一転閑散とした店内は、父親である喜納昌永のこなれた語り口で逆に親近感が増したように感じる。息子以上に艶っぽい伸びやかな歌声と、そんななかで聴いた島唄の数々はおつな趣きだった。
翌日の月曜日は仕事はなく大阪に帰るだけの予定だったが、18時前のフライトだったので、それまで気ままに観光してみるつもりだった。国際通りに面したホテルを昼前にチェックアウトして、しばらく市場通りの近辺をぶらぶらと散策して、公設市場のキュートなおばぁに薦められるまま島らっきょうと海ぶどうをどっさり買い込み、沖縄そば屋で昼食をとった。それから安里のレコード店で見つけたジョルジュ・ベンとフェラ・クティ&アフリカ70、それに昨年惜しくも他界してしまったイブラヒム・フェレールのリイシュー盤を購入する。そんなときは軽い熱病にほだされているようだ。わざわざ沖縄に来てまで買わなくてもと自分でも思いながらも、とくにアナログ盤は見つけたときに買っておかないと、後ではなかなか買う機会がなくなってしまうのだ。
いったんホテルに戻って荷物を預け直し、県庁北口のバス停留所から読谷行きのバスに乗って、国道58号線を北へ、基地の町嘉手納を目指す。首里城や旧海軍司令部壕、琉球村や玉泉洞、ひめゆりの塔など主だった観光地は以前に行き尽くしているし、それなら今の沖縄のふだんの風景を見てみようかと思った。本当は、読谷村の先の残波岬から巻き波をたてる東シナ海を見渡したかったのだけれど、往復にかかる時間を逆算して、諦めた。その途中にある嘉手納町でバスを降りれば片道1時間。ちょうどいい時間だった。
基地の町と書いたけれど、那覇空港と那覇港はそれぞれ軍施設を兼ねているし、沖縄の島全体が米軍や自衛隊施設であふれている印象は、那覇市の北隣の浦添市から、宜野湾市、北谷町、嘉手納町まで途切れることなく続く。浦添市の牧港には米海軍の給油基地と海兵隊のキャンプキンセーがあり、宜野湾市に入ってファーストフードやパチンコ店が並ぶバイパスを東に行くと普天間飛行場へ、そのまま58号線沿いに北上すると、石造りの昇り釜のような独特のお墓が点在する丘の合間に、ほどなく倉庫や迷彩色の輸送車両やトラック、迫撃砲の台車、バスなどが整然と並ぶキャンプフォスターがある。北谷町に入ると国道沿いには米軍払い下げ品や家具を売るショップが多くなり、その広大な敷地のなかに学校、病院、ショッピングセンターがある居住区域キャンプレスターが姿を現す。
沖縄本島の約19パーセントをこのような軍関係施設が占めている。日本の国土に対する沖縄県の面積はたった0.6パーセント、そのなかに在日米軍施設の75パーセントが集中している。
北谷町のキャンプレスターのゲート前には国道を挟んで海側に、シネマコンプレックスや観覧車まで併設した真新しい巨大ショッピングモールがあり、伊差浜の海岸は海浜公園として整備されていた。そして、高いフェンスの向こうに生い茂る緑の垣根の隙間に、芝生とアスファルトの敷かれた広大な滑走路が姿を見せ始めた。米空軍第18航空団が配属されている嘉手納飛行場だ。58号線は、海岸線に向かって開かれた滑走路と、在沖米軍艦隊活動司令部の置かれる海軍施設とをちょうど横断するように走っているから、バスのすぐ真上を、迷彩色のC-130輸送機が巨体を揺すりながら、すれすれの高度で離着陸していく。
国道58号線は、嘉手納町の町役場前で北西へとうねるように進路を変え、東シナ海へ、残波岬へと伸びる。そのまま飛行場沿いに名護市へと北上する道路は県道沖縄嘉手納線に名前を変える。鉄道のない沖縄で輸送手段の主力となる大型トラックやバスが、粒子の粗い排気ガスをまき散らして、次から次へと通り過ぎていく。
そんな町で僕はバスを降りた。
もともと嘉手納には、戦時中に旧日本軍が建設した飛行場があった。そのとき土地を強制接収された地主たち(そのほとんどがサトウキビ畑を営んでいた農民だ)への補償は、戦時の挙国一致体制と戦後の混乱のなかで今なお、なおざりにされたままだ。今日の有事法制が沖縄をモデルケースにして語られる由縁の一つだ。戦後、アメリカ軍が飛行場を接収し、滑走路を中心に広大な基地施設を建設した。嘉手納町の総面積15.04平方キロメートルの約83パーセントにあたる12.46平方キロメートルを、飛行場、弾薬庫地区、陸軍貯油施設といった米軍施設が占めている。
残りのわずか2.58平方キロメートルのなか、海づたいに追いやられた集落が、まるで息づくのを止めたように停滞した雰囲気なのは、仕方のないことなのかもしれない。これ以上開発されて派生していくスペースが、この町にはないのだから。メインストリートの国道や県道を行き交う車の量とは対照的に、人影はほんとうに疎らだ。緑と白のストライプのマーキーが印象的な〈オブリガード〉という名の喫茶店や、なぜかベイスターズの二軍チーム、湘南シーレックスのユニフォームを軒先に吊るしたスポーツ用品店なんかは、そのまま三十年前の佇まいをしているし、琉球風の格子のついた小さなテラスを通りに突き出したビルは、所々コンクリートが朽ちて剥がれ落ちている。個人商店のように小さな農協の前で、ゆっくりゆっくりと歩いていたおばぁがようやく観念したとでもいうように、疲れを癒すために歩道の縁に腰を下ろして、そのまま、また少し時間が流れていく。目が合うと、おばぁは照れたようにニッコリと微笑んだ。
一歩、路地裏に入ると、赤茶色の島瓦に格子戸の琉球風の家屋が入り組んでいるのだが、不思議と窮屈な印象はない。ときおり思い出したように強い日射しを覗かせる空の色のせいか、白や水色や橙色といった、家々の明るい色のせいか。きっと平屋が多いからだろう。家と家の隙間のような路地の奥に、今にも崩れ落ちそうなぼろぼろの長屋のようなアパートが収まり、その外壁からは、突然そう思いついたとでもいうように、また別の建物が生え出ている。たまに真新しく立て替えられた家もあるのだが、島瓦と鎮座する小さなつがいのシーサーは同じだ。
綺麗な公民館とけばけばした色に塗られた遊具のある児童公園の路地を歩いていくと、家屋と家屋の間にぽつんとある空地に、ひときわ穏やかな冷気を放つ大きなガジュマルの木を見つけた。大木の根元には小さな琉球風の祠がちょこんとのっている。脇にひっそりと『天然記念物 字嘉手納拝所の大ガジュマル』という看板が立っていた。推定樹齢は二百年超だそうだ。それ以上の樹齢がわからないのは、かつてこの辺り一帯が大きなガジュマルの森で、二百年前までは人目に触れることがなかったからだという。サワサワと心地よい風が通り抜ける。古ぼけた嘉手納の集落がこれほど密集しているのに、まるで窮屈な印象を受けないのは、きっと生活スペースの単位が、家一軒という狭いものではなくて集落で一つ、という伝統のようなものがあるからなのだろう。何百年も前からここの人たちは、この大ガジュマルの木の下の祠の前で、神事や宴や祭りをしてきたのかもしれない。ここはここで、基地とは無縁の時間が流れていた。
滑走路と国道沿いには、防衛施設管理協会沖縄支部や基地地主会館の建物と並んで、コンクリートと赤煉瓦の佇まいの町役場があるのだが、大きな図書館のような落ち着いた建物は集落とは対照的に、どんな町の役場にも負けないほど立派なものだった。帰りのバスを待っている間、青空のなかをひっきりなしに、まるでヒバリの群れのようにF-15戦闘機の編隊がひらひらと宙を舞ったり、キノコの傘のようなレーダーを掲げたE-3航空管制機が、キーンという襲いかかるようなジェットのソニックウェーヴをこだまさせながら離陸していく。どっちが日常なのだろう。そんなギャップのような違和感は、往きの風景をそっくり逆さまに繰り返すバスに揺られているうちに、ゆっくりと強くなっていった。バスが那覇市内に入って、再び国際通りのいつもの渋滞をのろのろと進んでいるとき、土産物屋の軒先のスピーカーから聞こえてきた三線の乾いた音色に、なぜかほっとさせられたのだ。
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