死神が祝福している
 ぼくには変な癖があって、本を読むときはいつも、ベッドに横になりながらでないと読めないのだけれど、そうしているとたいていは知らぬ間に眠ってしまい、そしてガラス窓を撃つ風の音で目が覚める。空は一面、どんよりとした石綿のような雲に覆われて、まるで奥行きをなくし、ほんの少し開いた窓の隙間から吹き込む風が、だんだんと強くなり、ぶらさがった黒いシェードをバタンバタンと激しく揺さぶり叩き付けている。

 枕元にはモノクロのパティ・スミスの『LAND』のスリーヴと、読みかけのページを開いたまま逆さに置いたスーザン・ソンタグの新しい著書。この二人の取り合わせは奇妙だけれど、必然だったのかもしれないし、そして途方もなく強烈にセクシーだ。それは、どこかよじれた必然性の効果であり、それ以上に、同じ強い力を秘めた女性同士が交わす神智の言葉が、ずっとそこに在り続けたからかもしれない。

 スーザン・ソンタグは、そのパティのベストアルバムに詩才あふれる一文を寄稿しているのだけれど、郷愁と愛情を込めてタイプを打っているそのときには、先鋭なジャーナリストで作家でもある彼女ですら、あんな未曾有の事件*1を経験するとは思っていなかったろう。あるいはその兆しを敏感に感じていたのかもしれない。結局はこうなってしまったのだと。そして潮流は行く末を定める。

 天気予報はにわか雨だと言っていた。突然、嵐に襲われると不安になる。奥行きを失った暗灰色の空に鋭くて白い光線がよぎり、一瞬にしてまた暗くなる。ピシャリ、ピシャリと間断なくガラス窓に打ち付ける硬い雨粒の音が瀑布のように覆い被さり、増幅する。そして冷気を伝える。窓際のベッドは居心地が悪い。

 遅い午後の現実を埋めるのはテレビのバラエティ番組で、いつも通りの違和感と蛍光灯の明かりのなか、想像するのは温かな紅茶の一杯だけ。でももう、平穏なだけの一日はあり得ないのだという気がする。あの日以来、ぼくの正気を保つのには日々真新しいニュースが必要で、あらゆる媒体を梯子する。でないとまたあの誰でもない気分、巨大な灰色に浮いているほんの小さな滲みのような気分に埋もれてしまう。

 ぼくたちは間違いなく9月11日以降を生きている。

 そしてニュース。

「憲法の解釈からいうと、日本が国土防衛のために核を持つことに問題はないんだ。ただ政策としてやらないということだ」

「日本の周辺で大きな有事が起きれば、国民も『非核三原則』を見直そうと思うかもしれない」

 メディアが伝えるその言葉の数々ですら現実なのだから、務めて現実的な話をしようと思う。今の有事法案の危険性はその『自衛権の拡張性』にあり、かいつまんで言えば、自衛隊が武力を行使する規模について、その条文のどこにもそれを制約するような一文がない。ただ"事態に応じ合理的に必要と判断される限度を超えてはならないものとする"とあるだけだ。 *2

 『おそれ』や『予測』を含んだ武力攻撃事態の定義の曖昧さと、核兵器についてある意味フレキシブルな政府見解から併せると、「事態に応じ合理的に必要と判断されれば、他国から(あるいは組織かもしれないが)攻撃を受けると"予測"された場合、先制核攻撃をしてもそれは自衛のためだから問題はない」と公言しているようなものだと思うのは、勘ぐり過ぎだろうか。

 法律としてはそれを許している。「ただ政策としてしない」 だけなのだろうが。今は。そしてアメリカが日本に核武装させたがっているのは、もはや周知の事実だ。

 5月30日の朝日新聞政治欄には、日本と中国が領有権を主張している尖閣諸島がもし占拠された場合、それは武力攻撃事態なのかとただした民主党議院に対し、福田官房長官は「おっしゃるような事態は一体いつ起きるのか。仮定の話をされても具体的にお答えするのは難しい」とむきになって反論、とある。有事法制は必要という立場のこの民主党議院は「そういうことを想定されていないというなら、有事法制なんかやめたらいい」と言い切った、という。

 有事法制とは、戦時になれば、すべてを戦争のために優先させるという法律だ。そしてまた、ふだんの日常が底辺から覆されるほどの"異常"な、そんな事態になったときに、市民の権利を保障し、『正当な暴力を独占する*3』国という権力の暴走に歯止めをかける、唯一の手立ても法律なのだと改めて感じる。その逆はいつだって悲劇なのだから。だれがどれだけの時間を費やしたかは知らない、ただそんな理念の上に制定された憲法の短い一文に、ぼくたちは実際に守られてきたという以上に、たったか細い一筋でも、ぼくには希望の光が見えるような気がしていた。そこには守るべき価値観があると思う。

 雨上がりの夕暮れ、ディーゼル・エンジンの騒音に掻き消されそうなカー・ラジオに聞き耳を立てた(ちょうど仕事の移動中だった)。防衛庁が情報開示請求をした市民の個人情報を無断で調べていたというニュース。それを行っていたのは陸自、航空、両幕僚監部調査課という諜報部署に所属暦のある隊員だった、という報道もごく限られたメディアでは流れた。

 夜のニュース番組の特集は、自衛隊の演習を取材していた。重機を使用し、地面を掘り起こしての防空レーダーと地対空ミサイル陣地の構築を指揮していた三佐は、「民間人がいる状況を想定しての訓練は行ったことはない」と言った。そして「民間人を守ることは想定していません。我々の部隊が守るのは友軍の戦闘部隊です」と。作戦を策定・指揮する立場の陸自幕僚は「作戦には"撤退"もある。我々には守るべき優先順位があるからだ。その為に"犠牲"を天秤にかけて考えなければならない。一番守らなければならないのは、これは『国』であり『国体』ですから」 "沖縄"が頭をよぎった。

 死神は、腹に冷たくなめらかな黒い莢を抱えて、その一瞥で辺り一面を焼き尽くす。「我は死なり。破滅の神なり」*4  ただ取り引きを忠実に実行する。

 一つ、正当な暴力を独占する権利を持つ者、取り引きを交わす者が勘違いしていることがある。『国』がなくなれば、たしかに『国民』は存在できないだろう。でも民は生き残る。

 なくなるのは社会の枠組みにすぎない。あるいは新しい枠組みができるのかもしれない。でも人は生まれ育った土地に暮らしていくだろうし、あるいは移り住んでいく者もいるだろう。営みは人が存在する限り続く。 戦争と殺戮を繰り返しても、自然を徹底的に破壊しても、 一つの文明が滅びて人類が滅亡したとしても、生命は共生し、どこかで続いているのだと思う。 結局は同じ生命にすぎないのだから。

 死神に魅入られたとき、ぼくはそう言う。そして闘うべき相手の姿が見えたことだけが、ただ一つ喜ばしい。

                                         2002年6月4日

*1 「戦争」と言った大統領に異を唱えて、敢えて事件と呼ぶことにする。惨禍には違いないのだけれど。

*2 この件に関しての政府の見解は、自衛隊の武力行使については、自衛隊法88条第2項("国際の法規及び慣例によるべき場合にあってはこれを尊守し、かつ、事態に応じ合理的に必要と判断される限度を超えてはならないものとする")で規定されているので問題はない、としている。"国際の法規及び慣例"とはつまり、先制攻撃の禁止や生化学兵器の使用禁止等を定めた国際法のこと。有事法案には『国際法の尊守』という一文が抜け落ちている。有事法案によって自衛隊法が運用される性質上、二年以内のさらなる自衛隊法の改正(そして米軍支援法の制定)も視野にいれられているため、志位和夫衆院議員は「(法律の拡大解釈を容易にする)恣意的なものがあるのではないか」と指摘している。

- それにしても政府の「問題はない」という言葉の多さ。そこにあるのは"解釈"だけで、"理念"めいたものはない。

*3 引用 マックス・ウェーバー 『職業としての政治』

*4 ロバート・オッペンハイマー 原子物理学者、『原爆の父』。1945年7月16日アメリカ、ニューメキシコ州アラモゴードにて。

- 本来の出典はヒンドゥー教の文献からだと思う。

report by ken.


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